3. アンサリング人間からクエスチョニング人間へ;質問術によるトレーニング

アンサリング人間からクエスチョニング人間へ

日本における教育はアンサリング中心である。
アンサリングとは、出された問題に答えていくことである。問題の設定がすでに済んでいるため、問題の範囲、制約条件などの枠組みが明確になっている。出された問題を解くわけであるから、解き方・答えのヒントは問題の中にあることになる。また、問題の解き方も既知の方法の組合わせや応用になり、定型的な答え、唯一絶対の解を持つ。
したがって、受験問題のように横並びで絶対評価をするような場合に向く。

一方、アンサリングに対してクエスチョニングというものがある。
アンサリングが「 出された問題に答えていく 」のに対し、クエスチョニングは未知の状況の中からテーマを見つけ出し、更にその「 テーマに対して答えられる( アンサリング )ような問題の形に創り上げていく 」ものである。
言い換えると、未知の状況の中から必要と思われるテーマを設定し、そのテーマに関連する要素・条件などを設定、さらに答えられる( アンサリング )ように問題の記述・定義を行っていくのがクエスチョニングということになる。
クエスチョニングでは、関連する全ての要素を状況に応じて設定していくため、問題自体が相対的に決まる。非定型的であり、アンサリングのように「 絶対的な解 」を持たない。状況の認識次第で問題の記述・定義は変わり、上手い・下手、的確・不的確という評価は成り立っても「 唯一絶対の解 」は存在しない。

日本における教育は、歴史的に見ても同質のものを求めており、同質・横並びの中で評価するためにどうしてもアンサリングに偏っていたと考えられる。
しかし、そのための弊害は大きい。
現在最も必要とされているのはクエスチョニング・タイプの思考方法・ロジックの形成であり、学生教育、社会人教育を問わず、クエスチョニングのトレーニングは急務である。

質問術によるトレーニング

それでは、クエスチョニングの訓練はどのように進めていったら良いのであろうか。
思考方法のトレーニングを行うにはいろいろなケース・スタディが役に立つ。
ケース・スタディは単に進めていけば良いのではなく、トレーナーがついてきちんと進めていく必要がある。
ケース・スタディを行う時のポイントは大きく分けて2点である。

1. 思考方法のトレーニングであるから、トレーナー自身がそれなりの思考方法・ロジックを身につけ、トレーニングに習熟している必要がある。( もっとも他人のトレーニングを担当すること自体がトレーナーにとって一番のトレーニングになる)

2. 従来のアンサリングとは全く異なるため、着想、発想法、視点、思考プロセス、論理構成などを重視し、情報/解釈、認識、評価項目・評価基準・価値基準など細かく確認することが重要になる。

思考方法のトレーニングをするのには「 質問 」をすることが役に立つ。
絶対に結論を言ってはいけない。質問を重ねていくことが重要である。まさに禅問答と言ったところであろう。
あくまでも問題自体が相対的であり、絶対的な解を持たないからトレーニングにおいて「 結論を言う 」「 答えを言う 」ということは、その時点で全ての終わりを意味する。

クエスチョニングのトレーニングにおいて、ある意味ではアンサリングと異なり答えは不要である。
重要なのは、答え( この場合、設定した問題、問題をどのように認識し、記述・定義したのか )に至るプロセス=論理の組立て、要素や条件の設定の仕方である。
もともとクエスチョニングは、状況に対してどのような認識をし、そこから何をテーマとして認識しえたのか、そのテーマにとって必要な要素・条件は何か、それをどう組立てていくつもりなのか、そのために何が必要なのか、....というように未知のもの、未知の状況に関する問題の記述が目的であり、それが一つの到達点である。
したがって、トレーニングにおいては、正しく、適切に問題の記述ができるための論理や関連する要素・条件の設定の仕方が重要であり、そこに到達するまで質問を重ねていくことになる。

実際のトレーニングでは、 あくまでも質問を重ねていく。
「 現状をどのように認識しているのか 」
「 その根拠は何か 」
「 それに対して今何が必要と考えるのか 」
「 何故それが必要なのか 」
「 それは本当に必要なのか、それを行う意味はどこにあるのか 」
「 それをすることによってどんな効果が期待できるのか 」...............etc.
もしも質問に答えられなければ、立体的に状況が見えていない、明確な考えがない、あるいは何も考えていないのであるから質問を変えていく。
どのように質問を変えれば良いのかは相手のレベル、志向、論理構成、さまざまな条件など、状況に応じて質問者が瞬時に、しかも臨機応変に判断する必要がある。
目的や状況により、質問の視点・内容・出し方は変わる。

相手を知ることを目的とする場合
相手に話させること、そのために相手の考えていること、感じていることを引き出すような質問の仕方をする。
質問者が前面に出るような質問の仕方 「 私は、...」 というような言い方はなるべく避ける。あくまでも相手に答えさせることを目的とする質問である。
具体的な項目を挙げて「 何々について、どう思う? 」というような質問の対象だけを具体的に示し、一方でその項目について相手が限定せずに答えられるような質問の仕方をする。
絶対に相手の答えを遮ってはいけない。
相手が答えに詰まったり、答えが曖昧になってきた時には対象のさらに具体的な部分を指定したり、具体的な場面・ケースを挙げることで答えやすいようにサポートする。なるべく他人、特に質問者( トレーナー )の例は影響を受けやすいので避ける。
あくまでも例を出すのは、質問内容の対象、その対象の具体的な部分、場面・ケースなどに限定した方が良い。
そうすることで特定の対象に関する相手の見方や考え方を知ることができる。

相手に考えさせることを目的とする場合
相手に考えさせることが目的であるから、質問もなるべく具体的・直接的なものは避け、抽象的・間接的な質問にとどめる。 万が一、初めの段階で方針や論理の組立てが間違っていることが分かっても、できるだけ本人が気づくまでそのままの方向で進める。相手の答えによって質問を変え、思考・論理構成の矛盾、間違いに気づくのを待つ。
ただし、常に相手の思考法、論理の組立て方を良く観察し、相手の答えを予測しながら質問を出すようにする。
例えば、相手の論理的な行き詰まりに対しては論理的な矛盾に気づくような質問( その質問の答え、あるいは質問に対する答えの出し方=論理や要素・条件設定がヒントになる )をすることで閉塞状態を打開し、再度論理を発展、あるいは組立て直すように仕向ける。
狭くなりがちな発想には全く異なる視点から質問をすることで再度視野を広げ、多面的、あるいは多次元的に物事が発想できるように仕向ける。
簡単に結論づけようとする場合には、「 その結論を否定するような答え 」を持つ質問をする。今までの方針、思考のプロセス、論理の組立て方が間違っていることを質問に答えること( 自分で結論を出させる )によって気づかせる。
結果としては、それまでやってきたことを否定し、差し戻すことになるが、自分自身が答えた内容によって自分がやってきたことの矛盾に気づくのであり、再度思考をやり直すようになる。
他人に否定され、他人に答えを言われたのではなく、自分で間違えに気づき、自分で答えにたどり着くことが重要なのである。

ある意味では、「 禅問答 」の現代版と思って良いだろう。

相手を教育する、理解させる、できるようにすることを目的とする場合
手順を理解させ、できるようにするためには、その答えにたどり着くまでの手順にしたがって一つずつ質問し、質問に答えることを繰り返すことで答えにたどり着けるようにする。
表の通りに数字を埋めていくといつのまにか答えにたどり着く計算図表と同じである。
ただし、計算図表と違うのは、知らない内にいつのまにかたどり着くのではなく、一つずつ考えて答えを出しながらたどり着くことである。
また、自分の価値基準・判断基準を相手に植え付けるためには、質問に答えさせながら
この場合、私ならこうする。なぜならば...」というように判断の仕方とその根拠・理由を明確に示し、自分の認識の仕方、判断の根拠などを印象づけていく。
このような手順を繰り返すことで、質問に答えながら思考の手順、価値基準・判断基準などを自然と身につけていくようにする。

3.質問術

質問術は、とても論理的である。
いろいろな場面で、多種多様な答えをするであろうさまざまな人達( 背景にはさまざまな知識や経験、考え方などがある )に対して、質問をしていくには、論理の立体的な構造( 質問の基になる膨大なデータ・ベース )を持つ必要がある。
いろいろなケースに応じて瞬時に、しかも臨機応変に質問を変えていくためには数多くの引き出しの中にさまざまな構造を持つ質問、プロセス、論理、事例などさまざまなものが詰まっていなければならない。
どこからでもスタートでき、どこへでもたどり着け、しかも途中で他へ飛んでも必ず途切れることなくつながっている。その間を結ぶプロセス、そこにある選択肢が全て含まれている必要がある。だからとても論理的である。

例えば、店舗の状況を知りたい時には自分であらかじめ一通り見ておいてから店の人に質問するようにする。ある意味ではすでに答えは仮説として持っていることになる。
店舗で質問をする時に重要なことは、自分がどのような立場の人間でこの店に何をしに来たのかということである。
多くの場合、チェーン・ストアに限らず、悪いことがあれば隠すような風潮がある。
人間だれしも悪いことは隠したいものである。厳しくしかられればしかられるほど悪いことを隠そうとする。
もし、隠していなければ、悪いと認識していないか、そんな余裕がないのだろう。
そのような中で自分たちの置かれている状況、困っていること、他部署へのクレーム・要望事項など本当のことを答えてもらうためにいろいろな角度から質問をする。
通常、現場では何が問題なのかを的確に掴んでいることが多い。さらに多くの場合、それらの問題に対する適切な答えすら持っている。
したがって、現場で質問をすることは実態を知る上でとてもためになる。
しかし、質問が下手だと何も聞き出せずに終わってしまう。
以前にこのようなことがあった。
ある営業マンが初めて小売店に営業に行くことになった。初めてなので状況が分からず、何を聞いたら良いのか分からない。そこでいくつかの事例を挙げて、小売業が抱えている典型的な問題点を説明し、営業の参考にするようにと言って送り出した。 2、3日経ってどうしたかを尋ねると、何も聞き出せずに帰ってきたと言う。
どのような話のやり取りがあったのかを聞いてみると、事前に説明した問題点の事例を先方に全て( 自分の持っている知識の全て )話してみたら「はい、その通りです。」という答えが返ってきて、その後が続かなかったと言う。
先方は、自店の置かれている状況を事例まで挙げて話してくれたものだから営業マンが全て分かっているものと思い、それ以上話をしなかったのだろう。
また、営業マンも数少ない知識を全て吐き出してしまったためにその後が続かなかったのである。
つまり、わざわざリハーサルまでして先方に話を聞きに行ったのにもかかわらず、相手からは何も聞き出せず、自分だけ話をして帰ってきたことになる。
「 質問術 」を身につけていないための悲劇だろうが、未知の相手と目的を持って「 会話 」をすることが如何に難しいかという典型的な例である。
会話の中にはとても多くの質問が含まれる。特に初対面や余り親しくない人と時間を過ごすのであれば絶対に相手のことを知るために質問が必要になってくる。
「 聞き上手は話し上手 」と言う言葉があるが、これは単に相手の話を聞いているだけではなく、いろいろな質問をすることで相手のことを訊き出しながら話を進めて行くのだと思う。質問を繰り返すことで相手の置かれている立場・状況など相手の考え方や判断をする際のバックボーンや実際の物事に関する発言から思考方法、価値観なども知ることができる。
「 質問術 」に関しては(株)話し方研究所所長の福田健氏の著書に「 質問術 」( (株)経済界 昭和62年9月 )という本がある。どちらかというとコミュニケーションという立場からいろいろなケースにおける事例を中心にしている。
広くはコミュニケーションということになるのだが、やはりそこはエンジニアリングという立場にこだわって「 質問術 」を技術として考えていきたいし、技術として論理的に体系づけてみたいというのが私の考えである。
(学)産能大学で15年間、コンサルタントとしてコンサルテーションや社会人教育に携わり、芝浦工業大学でももう15年以上学生に教えている。
その中で感じることは、単に断片的な知識ではなく、さまざまな知識・経験などをいろいろと使いこなしていくための主体性、創造力、想像力、構成力などを「 自分の知恵 」「 自分の論理 」として如何に身につけていくか、ということの重要性である。 特に最近テレビを見ていると日本代表のサッカー選手、あるいは塾に通う子供たちの創造力(creativity)、想像力( imagination )のなさ、が盛んに指摘されている。
一つのパターンを身につけると、すでに状況が変わっていても同じパターンで対応することしかできない。アンサリングしかやってこなかったことの結果ではないだろうか。

最近、日本でも取り上げられることが増えているが、アメリカでは議論や論理構築のトレーニング手法として「 ディベート 」というものがある。
残念ながらこのような手法・技術は日本人の感覚からすると理屈っぽくて敬遠されがちである。
従来の「 技術 」という概念からは少し外れるかもしれないが、あらゆる人があらゆる場面で必要となる思考方法・論理構成のトレーニング手法・技術として「 質問術 」、そしてそれらのバックグラウンドとして「 クエスチョニング 」というものが今後とても重要になってくるだろう。
特に流通・小売業は絶対ということが無い世界である。まして、人口減少、少子高齢化というこれまで経験したことのない状況へ我々は進んでいなければならない。
知恵の勝負になった時に必要となるのは人財と技術、そしてそれらを支えるのは創造力・想像力や構成力など未知なるものに対するクエスチョニングであることは間違いないだろう。

(1997年7月)※2006年9月改訂